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有翼とサロメ

 カーテンの締め切られた暗い室内で、一人の女が横たわっている。
 床にうずくまり、苦悶の表情で顔の右半分を両手で押さえ、その指の隙間からは血が滴っていた。すぐ側には男が立っており、息は荒く、ひどく動揺している。震える男の手から滑り落ちた何かが、床板とぶつかり重く硬い音がした。
 その音に弾かれるように、男はその場から逃げ出した。わずかに開いた隙間から外の光が差し込む扉へ向かい、慌ただしく部屋から飛び出して行った。

 残された彼女は、苦痛に耐えながら片手をついて身を起こす。しかし、立ち上がることはできず再び床へ沈みこむ。
 薄れていく意識の中で、その場にいない男の名を、彼女は何度も呼んでいた。

 ピレネー山脈の麓のこの小さな町に、チータが移り住んだのは8歳の時だった。
 幼い彼女は、父親の使用人が運転する車の後部座席から、背の低い葡萄畑が後ろに流れていくのを碧い瞳で見つめている。
 窓の外を眺めるの飽きて、ふと隣の母を見上げる。反対側の窓を向く母の目は虚ろで、まるで地の果てに追いやられたと言いたげな顔をしていた。実際にそうなのだと、幼いながらに彼女は察していた。母の横顔は、鬱々と車外を見つめる碧い瞳とは対照的に、陽光を浴びた金色の髪の毛が煌めいている。彼女の母は美しい人だった。

 この親子は初めからこの町で浮いていた。母親がどこかの資産家の情婦であることは早くから知れ渡っており、大変な激情家だった彼女はよく周囲と諍いを起こした。そんな母と生き写しの容姿でありながら、その娘は感情の起伏を見せず、大人びた雰囲気を持つ少女であった。
 訳ありの親子を見ては耳打ちし合う人々も、彼女に邪な興味を持って関わりを持とうとする青年達も、少女は勤めて気にしないようにしていた。
(全部、どうでもいいことだわ)
 そうして初めから、周囲との繋がりを期待し得ない環境で育った少女は、感情を隠して心を守る術を、より強固なものにしていった。

 他人に何の期待も抱かなかった訳ではない。いつしか父が母の元に通わなくなり、別の男が家に出入りするようになった頃に、一人の青年と出会った。
 癖っ毛で、健康的な小麦色の肌をした男だった。
「出自なんてくだらないさ、言いたい奴には言わせておけばいい」
 自分と一緒にいることで、青年に迷惑が掛かるのではと心配する彼女に、彼はいつもそう云って笑いかけた。
「俺は君が好きだ」
 母も出自も関係なく、自分を見てくれる青年を彼女は好きだった。
 母が男と去ってから、小高い丘の家で一人になった彼女は、もしかすればこのまま、自分はあの青年と暮らしていくこともできるのかもしれないと、淡い期待を抱いたりもした。

 しかしあの暗い部屋で、その希望は絶たれてしまった。
 彼女自身に刻まれたこの傷は、逃れようもない呪いとなって、彼女の心を閉ざしていった。

 厳しい冬が迫る晩秋の日、内職の納品を終えたチータはストールを目深に被り、身をひそめるようにして家を出る。傷を負ってから人目を避けるようにしている彼女にとって、買い出しは気の重い時間だ。白い息を吐きながら市場へ向かい、周囲からの視線に耐えて最低限の会話で買い物を済ませる。その傍で、店主たちの奇妙な会話を耳にした。

 最近、森に良くないものがいるらしい。コウモリのような翼を持った男がうろついていて、出会った人を襲うのだという。

 あれは悪魔に違いないなどと、まるで子供を脅すための物語のような噂話を、大人達が語り合っている。チータはくだらないと呆れたが、麓の森といえば、まだ父が母に会いに来ていた頃に3人でハイキングに出かけた日のことを思い出した。ブナの林の木漏れ日の中で、母は楽しそうに笑っていた。そして、バス停からの帰り道に出会った青年を、その森の入り口近くにある家まで案内したことも、彼女は思い出していた。

 帰宅し、夕暮れの光が差し込む室内で、チータはテーブルに荷物を置いた。そのまま椅子に座り、テーブルへ突っ伏す。退院してから、彼とは会っていない。彼が会いに来ないということは、そういうことなのだと察して、彼女からも会いにいくこともしなかった。
 一目会って何か言葉を交わせば、渦巻く感情のどれかは整理がつくかもしれない。いや、どうせもうダメなのだ。でもこのままでは嫌だとなど、支離滅裂な思考が頭の中でせめぎ合っている。
「………」
 ゆっくりと起き上がって、再びフードを着込み、玄関へ向かう。やめろ、どうせ良くないことが起こる。という心の声を無視して、玄関の扉を開け、再び外へ出た。 

 彼の家に着く頃には、日はもう暮れていた。この家も彼女の家と同じく、町の中心部からは少し外れた場所にある。鉄格子の門の向こうに、広い中庭を挟んで赤い屋根の一軒家が見える。一段と冷える空気に白い息を吐きながら、彼女はどうすればいいかわからず彼の家の前で立ち尽くしていた。傷を負う前だって彼の家を訪問したことなどないのだ。彼の両親が自分を歓迎するとは思えない。彼と会う前に追い返されるかもしれない。
 門の前で立ち尽くしていると、かすかに青年の声が聞こえた。見回しても青年の姿はなく、声は少し遠くから聞こえてくるようだった。声のする方、家の裏手側に回り、恐る恐る角の向こうを覗き込むと、塀にもたれて座り込む男がいた。暗がりの中、タバコをふかしながら携帯電話を持って何やら話し込んでいる。
 彼だ、と確信して思わず壁際に身を潜めてしまった。どう声を掛ければ良いのか、彼女は必死に考えを巡らせる。

「確かにあいつの家が厄介なのは知ってたけど」

 盗み聞きはいけないと思いながらも聞いてしまった言葉に、彼女の胸中に嫌な予感が走る。
「それだけなら、なんとかなったよ。でも、あれじゃあさ……」
 やめろ、聞くな、と自分に言い聞かせながらも、両足が石のように重い感じがして、その場を離れられない。
「流石に両親に会わせられない。それは……悪いなとは思うよ。でも俺も困ってるし、仕方がないって、お前だってそう思うだろ」
 彼女は、彼がなんの話をしているのか確信して、目頭が熱くなるのを感じた。やはり良くないことが起こったと、ここに来てしまったことを後悔し、目の前の景色が歪んでいく。
「もうしばらく会ってないしさ、このままもう、別の……」
 彼女は衝動的に、塀の補修のために捨て置かれていたレンガを手にして、身を潜めていた場所から飛び出した。身体中を駆け巡る激情に突き動かされ、青年の元へ駆ける。
 足音に気づいた青年が振り返った時には、レンガを振り上げたチータが眼前に迫っており、青年は携帯電話を取り落として悲鳴をあげた。
 暗がりの中で、青年の悲鳴にチータは硬直する。彼女を突き動かしていた激情の波が、体の中から引いていく。
「チータ……?」
 右手を振り上げたままよろめきながら、後ずさる。二、三歩下がったところでレンガを落とし、踵を返して森に向かって駆け出した。背後から名前を呼ぶ声が聞こえたが、一瞥もせず走り続けた。

 暗い森の道を、白い息を吐きながらチータは走り続ける。薄闇の中で、いつの間にか山道を外れ、倒木に躓いて派手に転んだ。冷たい地面に突っ伏し、起き上がる気力もなく、気がつけば降り出しだしていた雨が、彼女の体温を奪っていく。
 頭に上った血が引くにつれ、冷静さを取り戻した彼女はむくりと起き上がり、あたりをぼうっと見回す。薄く射す月明かりを木々が遮る暗い森は、来た道をまっすぐ戻ることも難しそうであった。暗がりを見つめながら、先ほどまでの自分の衝動的な行動を思い起こしていた。
「どうして……」
 チータがぽつりと呟いた時、突然背後で大きな翼がはばたき、風を巻き上げる音がした。同時に、鳥にしては大きすぎる何かが飛び立ったのか、大振りの枝がしなり、葉が擦れ合う音がする。彼女は音のした方を見やり、暗闇に目をこらすが大型の動物らしき影は見当たらない。彼女の脳裏に、市場で聞いた噂話がよぎる。

”最近、森に良くないものがいる────”

 まさか、本当にそんなものがいるわけないと思いつつ、もしも本当に居るのならどうぞ好きにしてくれと、そんな捨て鉢な気持ちで、彼女はフラフラと立ち上がり、音のした方へ歩き出す。冷たい雨に体力を奪われていて、足取りは重くおぼつかない。とぼとぼと、音が聞こえた方向へ歩くうちに、暗闇の先から水の流れる音が聞こえた。
 川が近いのだろうか、と彼女が歩みを止めた時、先ほどよりかなり近い場所からあの大きな羽ばたく音が聞こえた。驚いた彼女は、振り向いて音の主を確かめようとしたが、濡れた地面と木の葉に疲労していた足が滑り、転倒する。本能的に、とっさに手を付こうとした場所には何もなかった。
「えっ……」
 思っていた以上に視界が傾き、そのまま落下する。歩いていたすぐ側は崖になっていたのかと遅まきながら理解した彼女は、予期される惨劇に目をつぶった。
 次の瞬間、予想よりはしなやかな衝撃が彼女の身を打った。崖の底は川になっており、ごう、と流水が耳を圧迫する音がした。地面への激突は免れたが、川の水は身をさすように冷たく、心臓が掴まれたかのように痛んだ。

 遠のく水面に向けてもがき、なんとか水中から顔を出す。川岸に寄ろうとしたが、冷えた手足には力が入らず、水の力に押し負ける。再び水にのまれそうになった時、不意に襟首を強い力で掴まれ、川面から引き上げられた。宙に浮いたような感覚に驚く間も無く、乱暴に川岸に投げ出されて、衝撃と飲み込んでしまっていた水のために激しく咳き込んだ。しばらく咳き込んだあと、肩で息をしながら彼女は傍に立つ自分を引き上げた何者かを見上げた。
 月明かりが映し出すシルエットに、チータは息を飲む。コウモリのような、皮膜のある翼を背負った男がそこに立っていた。長いストレートの黒髪が雨に濡れて、カラスの羽のように月の光を反射している。男の姿に呆然とする彼女の前に、男は何かを投げ出して
「その本を開いて読んでみろ」
と、言い放った。
 一瞬何を言われたのか分からず、投げ出されたものを見ると、それはハードカバーの大判の本だった。
「早くしろ!」
 男の怒鳴り声に彼女は身を硬くし、恐る恐る投げ出されたそれに手を伸ばす。
 全身が冷たい水に濡れたことで、さらに体温が下がり奥歯がカチカチとなっていた。凍える手でその本を拾い上げると、暗がりでよくは見えないが、ずっしりと重い立派な装丁で表紙には文字か、模様が刻印されている。こんな暗さで文字なんて見えるわけがないのに、どうしろというのだろうと、疑問に思いながら表紙を開く。
 その瞬間、本がぼうと光を放った。不可思議な現象に、彼女は再び息を飲んだ。
「遂に見つけたぞ!お前が俺の本の持ち主か!」
 狂気する男に、チータはさらに困惑する。彼女の様子に構わず、翼の男は上機嫌で語り始めた。
「俺はこことは別の世界、お前たちの言うところの魔界からきた」
「……魔界?」
 聞きなれない言葉に彼女は戸惑った。
「俺を含めて100体の魔物がこの世界に来ている。1000年に1度行われる王を決める戦いに参加するためにな。そしてお前はその俺のパートナーとして、俺と共に他の王候補と戦わなくてはならない」
 男の話は、さらに彼女を混乱させた。凍えながらも、理解しようと男の言葉を反芻する。魔界、1000年に一度の戦い、荒唐無稽で全く飲み込めないが、確かにこの目の前の男は、魔界から来た魔物に違いないと思った。
「訳がわからないわ、どうして私が……」
「黙れ、俺の言う通りにすりゃあいい」
 男に言葉を遮られ、彼女は眉を顰める。
「私に何をしろって言うの」
「とりあえずその本を開いて、声に出して読んでみろ」
 男はあまりに高圧的な口調で、取りつく島もない。仕方なしに、彼女は本に視線を落とす。寒さに震える指でページを捲り続けると、1箇所だけ確実に理解できる一文があった。
「読んでみろ」
 男に促されて、戸惑いながらもゆっくりと口を開く。
 しかし、チータが声を発しようとした時、彼女の上体はゆっくり傾き、そのまま地面に突っ伏してしまった。彼女の様子に気づいた男が呼びかけるも反応はなく、力を失った手から本が滑り落ち、彼女はぐったりと地面に横たわる。眠気、という表現では生易しい、体温が下がり続けたことによる意識の混濁が、彼女を襲っていた。焦った男が彼女の肩を掴んで揺らすも、脱力した体はされるがままに揺れるだけで、返事はない。
 もうほとんど目も開かず、揺れるわずかな視界の中で、先ほどまでとんでもなく横暴だった男が焦り取り乱しているのが、チータには可笑しかった。なぜそんな余裕があるのか、自分でも不思議に思う中、限界を迎えていた彼女はそのまま意識を失った。

「ねぇ、お姉さん」
 バス停からの帰り道に、一人の青年に呼び止められ、チータは足を止める。
「道に迷っちゃってさ、悪いけど案内してくれない?」
 癖っ毛の黒髪に、小麦色の肌をした見慣れない青年が、白い歯を見せて笑いかけてくる。下らない軟派だと思い、彼女は無視して通り過ぎようとした。
「あ、ごめんって!道に迷ったってのは嘘!」
 歩き去っていこうとする彼女を、彼は慌てて引き止める。
「実を言うと、昨日この町に引っ越して来たばかりで、知り合いが一人もいないんだ。だから、良ければこの町で最初の友達になって欲しいなって」
 はにかむ青年を、彼女は訝しげに見つめる。
「どうせここからは一本道だろ?一緒に歩いてくれるだけでいいんだ」
「わかったわ」
 彼女は溜息をつき、仕方無く青年と共に歩き始めた。
「親父がね、ここの葡萄で新しく商売をしたいらしいんだ」
 日没の遅い夏の日だった。まだ太陽が高く出る夜の町を、二人で歩いていく。
「ここの夏は涼しくていいね」
「冬はとても寒いわ」
「それはそれで楽しみだな、おれ、雪とかあんまり見たことないんだ」
 よく話す青年の隣で、彼女は素っ気なく相槌を打つ。目的地である彼の家に着いてから、夕飯を食べていくよう勧められたが、彼女は仕事があると言って断った。
「あのさ」
 青年は帰ろうとする彼女の手を取って引き止めた。先ほどまでの軽薄な調子から一変して、少し緊張した面持ちだ。
「また、町で見かけたら、声をかけていいかな」
「……好きにしたら」
「よかった」
 ほっとした様子の青年をみて、チータは胸が締め付けられるような思いがした。
(私はこの人を知っている……)
 彼がひどく懐かしい。こんな風に引き止められるのを、ずっと待っていた気がする。
(でも、これはきっと…‥)
 しかし同時に、それは実現し得ないのだという確信があり、その確信が、彼女にはひどく悲しかった。
 こうして話すひと時も、もう思い出の中にしかない。

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