ごう、と強く吹いた風が頬を撫で、それが木々を揺らす音で、彼女は目を覚ました。
(夢……)
先ほどまで見ていた情景が消え、朝日の眩しさを感じる。夢の中で感じた感情の残滓が、左目から頬に伝っていた。
意識が覚醒するにつれ、彼女は自分がなにか暖かいものにもたれ掛かっているのだと気付いた。不思議に思って目を開けると、体に覆いかぶさるものがあった。目を瞬いて次第にはっきり見えたそれは、見覚えのある翼だった。チータは、昨夜の翼の男に後ろから抱きかかえられる状態で座っていた。
「起きたか」
目を覚ましたことに気づいた翼の男が、彼女を覗き込む。彼女の濡れた目元を見て、男が怪訝な表情をしたので、チータは慌てて顔を拭った。
「あれからずっと……?」
目元を擦りながら訊いた彼女に、男は「あぁ」と返事をして立ち上がった。体を包んでいたものがなくなり、早朝の冷たい風にさらされた彼女は、両腕を抱えて身震いした。助けられたのだと理解した彼女が、戸惑いながら礼を言うと、男は特に何も云わず、
「お前、名前は?」
と彼女に訊いた。
「……チータ」
「そうか、俺はロデュウだ」
*
「よし、昨日の続きだ、本を読んでみろ」
ロデュウが投げ渡した本を、チータは受け取る。本を開くと、昨夜と同じように文字が光を放ち始めた。今度は特に驚きもせずページをめくり、理解できる一節にたどり着く。不思議そうに彼女が彼を見やると、彼は「それを読め」と顎で促した。チータは再び本に目を落とし、口を開く。
「ラギュウル」
読める通りに彼女がそう唱えた瞬間、彼の翼から放たれた黒い光線が、二人の前方一直線上にある木々をなぎ倒した。辺りに地響きが鳴り渡る。その一帯だけ、上を覆っていた枝葉がなくなり、頭上に晴れた空が覗く。
「ふん、こんなもんか」
木々が吹き飛び見通しの良くなった森を呆然と見つめるチータの傍らで、ロデュウは満足げに構えていた翼をひと払いしてたたむ。チータは昨夜の彼との会話を思い出す。
「これは……」
「お前がこの本の呪文を唱えることで、俺は術が使えるってわけだ。他の魔物どもも同じだ」
改めてロデュウから説明を受け、彼女は全容を理解した。
この世界に来た100体の魔物が人間と組み、王の座を巡って戦う。魔物の術は人間が呪文を唱えることでしか使えず、本を燃やされれば負けとなり魔界へ帰る。
彼がどんな存在であり何のためにここへ来たのか、一応は飲み込んだ彼女は、本の表紙を見つめてしばらく思案する。
「私に、あなたが魔界の王になる手伝いをしろってこと?」
「そうだ」
「そんなこと、突然言われても……どうして私が」
そう言った瞬間、チータは突然、荒く胸ぐらを掴み上げられ、言葉を遮られる。
「テメェの都合なんて知らねえ、従うか従わないかって聞いてんだよ」
ロデュウは彼女に顔を寄せ、低い声で呻る。
「言う通りにしろ。じゃねえと痛い目をみるぞ」
「………」
チータは一瞬眉間に皺を寄せたものの、怯える様子はない。座り込んでいた地面から腰が浮くほどに吊り上げられても、動揺を見せない彼女に、彼は苛立ちを募らせる。
「この本を読めるのは私の他にいない」
しばらく睨み合った後、チータは吊り上げられた状態のまま、ぽつりと呟いた。
「だから私を生かしたのよね」
ガラス玉のような眼は、一切の感情を覗かせない。
「私は絶対に従わない。協力してほしいっていうなら、考えるわ」
「あぁ?」
彼はチータの首元を締め上げるが、彼女の表情に変化はない。
「それが気にくわないなら、好きにすればいい」
息を詰まらせながらもそう言い放った彼女に、ロデュウは押し黙る。
王を決める戦いには人間のパートナーが不可欠だ。もし人間にその気がなくとも、脅しつけて従わせるつもりだった。それなのに、この女は自分を怖がりもしない。
「ずっとこうしているつもり?」
動きの止まった彼を煽るように、チータは自分を吊り上げている彼の手を見やる。
「………わかったよ」
彼は舌打ちをして、投げ捨てるように彼女の襟元から手を離した。
解放されたチータは、引っ張られた衣服を直しながら彼に冷ややかな目を向ける。この男は相手と対等か、下手に出るということが我慢ならないか、発想すらないようだ。協力を仰げばいいものを、先に脅しにかかる野蛮さに彼女は呆れていた。
(まるで獣ね)
森にいたのは悪魔そのものではなかったが、限りなくそれに近いと彼女は思った。厄介なことになったと、溜息をつく。
「で、なんでお前は森ん中を走ってたんだ?」
「……言いたくないわ」
今度はロデュウが溜息をついた。面倒な女だと思われたようで、彼女は少しむっとする。
「家は近いのか?」
彼の問いかけに、そういえば帰り道がわからないのだと思い出し、立ち上がって辺りを見回す。チータのいる河原は切り立った崖に囲まれ、上に行くほど壁は川側にせり出している。昨夜歩いていた場所にどこから戻れるのか、見当もつかない。
途方に暮れていると、ロデュウはチータに近づき横抱きに抱き上げた。
「えっ……ちょっと……」
動揺する彼女を無視して、翼を広げて地面を蹴り、一気に空へ舞い上がった。一瞬のうちに空に攫われたチータが悲鳴をあげる。
「おい、案内しろよ」
目を固くつぶっていたチータは、ロデュウに言われ恐る恐る目を開ける。視界一杯に青い空が広がっている。遥か下で流れていく森が途切れる先に彼女の見知った家々が見えた。
「あの、左手の、丘の上の家」
チータが指さすと、ロデュウはその家に向けて急旋回し、大きく羽ばたいて風を切るように飛んだ。急に揺らされ、チータは彼の首にしがみついてまた目を瞑る。強く吹く風に全身を撫でられ、風の音が耳元でなっている。彼女の反応を、彼はせせら笑った。
「着いたぞ」
丘の上の家へ着いたロデュウは、翼を羽ばたいてゆっくりと高度を下げ、着地した。
「そんな調子で大丈夫かよ」
チータを地面に下ろしながら、あきれた様子でそんなことを言う。地面に座り込んだチータは「今度から飛ぶ前に一言いって」と返した。
立ち上がってフラフラと玄関に向かい、鍵を開けようとポケットを探る。指先に硬い感触を感じ、鍵を無くしていなかったことに安堵する。扉を開け、ロデュウを家に入れてすぐに玄関の扉を閉めた。
他の誰にも見られなかっただろうか、と心配事はあるものの、やっと一息ついたチータは大きな溜息をついて扉にもたれ掛かる。視線を落とすと、服も靴も泥だらけで、乾いた土がパラパラと床に落ちている。
服についた土を払い、汚れた服と体を洗うために足早にシャワールームに向かう。途中、いつの間にか部屋の奥にいるロデュウが、物珍しそうに棚に手を伸ばす姿を捉えて立ち止まる。
「あちこち触らないで。私が戻るまで大人しくしてて」
「あぁ?」
指図されるのが気にくわないのか、彼は険しい表情で睨むが、彼女も負けじと視線を返す。
「チッ、わーったよ!」
ロデュウが舌打ちをし、観念するのを確認したチータは、足早にシャワールームへ入っていった。
*
服を脱いでシャワールームに入ると、彼女は自分が傷だらけであることに気づいた。あちこち擦りむいて、薄く血が滲んでいる。チータは白い腕に石鹸を滑らせて泡を立て、腕足についた血や泥を落としていく。傷が沁みたが、化膿しないよう入念に洗った。一通りシャワーで泡を流し、濡れた髪をかきあげたところで、蒸気で曇った鏡に目が止まる。鏡に手を伸ばし水滴を拭うと、碧く黒目がちな左目と顔の右半分を覆う引きつった傷跡が映し出され、脳裏に昨夜聞いた声が反響する。
(あれじゃあ両親に)
「うるさい」
不愉快な声をかき消すために、虚空に向かって言葉を吐く。森であまりに訳のわからない事態に遭遇したために、今まで忘れていた事柄が一気に思い出される。
「…………」
虚ろな目でタイルの上を流れる水を見つめる。彼の家へ向かったこと、衝動に身を任せたこと、すべてを後悔していた。
足元を見つめながら、しばらくじっとしていたチータは、規則的に何かを乱暴に叩く音で我に返る。玄関の扉が激しくノックされる音だ。彼女の家を訪ねてくる者といえば、内職の雇い主しかいない。チータは大きく溜息をついて、シャワーを止めた。シャワールームを出てバスタオルを引っ張り出し、髪と体を拭う。彼女が体を拭いている間、執拗にノックの音が鳴り続けている。あの雇い主は、彼女が扉を開けるまでいつもああやって強く叩き続けるのだ。
納品は昨日済ませたはずだ、またなにか余計なことでも探りに来たのか。とチータが憂鬱な思いで準備をしていると、荒い足音がした。玄関に向かっているようだった。
(ロデュウ!?)
面倒ごとを起こされる嫌な予感に、彼女は慌ててシャワールームを出た。
ダイニングテーブルで肘をついていたロデュウは、しつこく鳴り響く音に耐えかねて、乱暴に椅子を引いて立ち上がった。荒っぽく足音を響かせながら玄関に向かう。「大人しくしていろ」というチータの言葉に従う気はとうに失せており、ドアノブを掴み勢いよく扉を開けて一喝した。
「うるっせーな!」
扉を開けた先に立っていた初老の女は、予想外の相手に驚きたじろいている。
「あ、アンタ誰だい」
慌ててリビングに戻ったチータは、玄関で雇い主に相対しているロデュウの姿に驚く。
「お前こそ誰だよ」
横暴な口ぶりで雇い主に向かう男は、完全に人間の姿をしている。黒く長い髪から明らかにロデュウではあるが、その背中に翼はなく、顔の模様は消え肌の色も変わっていた。
「こ、ここの家の娘の雇い主だ。チータは居ないのか」
ロデュウに気圧されながらも、女は室内をじろじろと見回す。奥にいたチータはロデュウを押しのけて、玄関口に出た。
「なんでしょうか?」
「昨日の夜、どこに居たんだ?」
彼女を前にして雇い主は態度を一転させ、尋問するかのような口調で彼女に迫った。
「……家に居ました」
一瞬胸がざわついたが、彼女は表情を変えず何でもないといった風を装う。
「お前、あの家の息子に会いに行ったんじゃないのかね?」
「確かに会いました。でも、それが何か」
チータの返答に女は顔をしかめる。いつもながらに、無愛想な態度で接する彼女のことが気に食わないのだ。
チータの雇い主であるこの女は、何かと彼女の周りを詮索し、話の種にしている女だった。朝から彼女がらみの噂を耳にし、また何か聞き出して噂話に新たな情報を提供してやろうと考え、立ち寄ったのだ。しかし今回は、まったくの予想外のことが起こった。
雇い主は一瞬チータから視線を外し、彼女の背後を見やる。チータの背後に立つあの見慣れない長髪の男は、苛立ちを露わに、唯ならぬ圧をこちらに掛けてくる。これ以上長居すると、面倒なことになりそうな気配が全身から漂っている。
「ふん、そうかね、別になんでもないよ」
雇い主はこれ以上の詮索を諦め、悔し紛れに鼻を鳴らす。
「昨日の納品は問題なかったよ。次も遅れるんじゃないよ」
腹いせに嫌味の一言でも言ってやろうかと思ったが、背後の男を警戒してやめておいた。目的の話は聞き出せなかったが、他に面白いことが知れたので今回はそれで良しとしてやろうと、そそくさと退散した。
チータは雇い主が帰っていくのを確認して、扉を閉めた。振り返ると、ロデュウは元の翼のある姿に戻っていた。
「んだよあいつ」
「たまにああやって、余計なことを聞きに来るのよ」
チータはダイニングの椅子を引いて深く座り、背もたれに身を預ける。
(これでまた噂になる。今度はなんて言われるか)
どうせ母親に絡めて好き放題に言われるのだろう、と容易に想像がついた彼女は、憂鬱そうに天井を見上げる。
「おい」
ロデュウに呼びかけられ、彼女は背もたれに頭を預けたまま、首を傾けて彼の方を向く。
「腹減ってんだよ。何か食わせろ」
チータはまた天井を向いて、深く深く溜息をついて両手で顔を覆った。
(こんな男と、これから一緒に……)
どうしてこんなことになったのか、と思考を巡らせ、あの森で翼の音に向かって歩いて行ったのは、自分自身なのだと思い出す。
(私が、自分から拾いに行ったようなものね……)
そう思うと、まだ諦めがつくような気がした。自分も昨晩から何も食べていないため、彼女自身も空腹を感じていた。
「少し待って」
チータは椅子から立ち、台所に向かって準備を始めた。調理に取り掛かる中、ふと気になり
「森ではどうしていたの」
と訊く。動物を襲っていた、というロデュウの返答に、彼女の脳裏に『野蛮』の2文字が浮かぶ。やはり人より獣に近いのではないかと心配になった。
実際、彼は出された料理を手づかみしようとするなど、彼女の感覚とはかなりの隔たりはあったが、味覚自体は人間と変わりがないようでチータは軽く安堵した。しかし、その後際限なく食べ続ける彼の無遠慮さに、彼女は久方ぶりの怒鳴り声を上げることになる。
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