森での出会いから幾らかの日が経った。あの時、紅葉し切っていた葉は全て落ち、木々は冬の姿へと変わっていた。雇い主から今週分の仕事を受け取り、一人家路を歩く彼女は、受け取った荷物の他にもう一つ布製の鞄を肩から下げている。中にはあの珈琲色をした本が入っている。ロデュウに常に持っておけとうるさく云われ、この鞄に入れ持ち歩くようにしていた。
こんな田舎で他の魔物とどう出会うのかとチータには甚だ疑問ではあったが、ロデュウによると王候補の魔物は自然に引かれ合い、出会うようになっているらしいと聞いて、致し方なく従っている。結局、他の魔物には未だ出会っていない。
彼女はふと、他の魔物とはどのような容姿をしているのだろうと考える。彼のように人の形に似ているのか、人とはかけ離れて非常に恐ろしい姿の者もいるのだろうか。そういうものと対峙して、自分は戦えるのだろうか。
「よくわからないわね……」
彼女には、いまいち実感が湧かなかった。
そんなことを考えながら、人気のない道を歩いていると、丘に続く坂道の途中で、彼女と同じ歳の頃の青年達が道端にたむろしているのが見えた。チラチラとチータの方を指差し、軽薄な笑みを浮かべながら何か耳打ちをしあっている。彼女はその視線に気づいていたが、構わずまっすぐと道を進む。意に介さないといった様子で、そのまま歩き続け、ついに青年たちの隣を通り過ぎようとした時、集団のうちの一人が声をかけて来た。チータはまるで聞こえていないかのように歩みを止めない。
「無視はないだろ」
声をかけた青年がチータの前に立ちふさがる。進路を塞がれたチータは、その青年の脇を抜けて尚も先に進もうとした。
「ちょっとくらい付き合えって」
立ちふさがった青年がチータの腕を掴んで引き寄せ、彼女の顔を覆うストールに手を伸ばす。チータは咄嗟にその手を払い落とし、男から離れようとしたが、彼女の腕を掴む男の手はびくともしない。振り切ろうともがきながら、チータは男たちとの誰とも顔を合わせないように顔を他へ向ける。腕を掴んでいた男が、彼女の抵抗を軽く制しながら「泣いた?」と呟いた。チータは内心で「誰が泣くか」と吐き捨てる。
「そいつ、ずっと表情変わんねーの。人形みたいに」
たむろしていた連中のうち、腕を組んで様子を見ていた男がヘラヘラと笑う。チータにはこの声に聞き覚えがあった。前にも傷を見せろと絡んできた者の一人だ。腕を掴んだ男は仲間の返答に、へぇと呟き、まるで好奇心旺盛な子供のように、横を向くチータの顔を覗き込もうとした。不愉快な視線を遮ろうと、チータはストールの端を掴んで顔を隠す。
「いや、見せろよ」
男はチータのもう片方の手を掴み上げた。顔半分を覆っていた布が敢え無く引き剥がされる。肩を滑ってストールが地面に落ち、短く切ったブロンドの髪が露わになる。改めて青年は俯いたチータの顔を覗き込む。チータは最早、男の視線を避けようとはしなかった。
彼女の顔は、屈辱的な扱いを受けている筈なのに、まるで仮面でも被って居るかのように、無機質で、感情が読み取れない。透き通るような白い肌で、整っていて、本当に人形のようだった。吸い込まれるような碧い瞳は虚ろで、目の前の男を見ているのか、見ていないのかわからない。そして、その白い肌に際立つ、右の額から頬までを覆う引きつった皮膚。
「おい」
チータに気を取られていた男は、背後からの聞きなれない声に驚き振り返る。瞬間、横っ面を殴られ、そのまま体ごと半回転した。この一撃で完全に意識の飛んだ男は、ふらふらと足を絡ませてその場に倒れ込み、動かなくなった。
突然の襲撃者に青年たちは動揺した。この見通しのよい場所で、いつの間にこの男は近づいて来ていたのか。気配どころか、足音さえも聞こえなかった。
解放されたチータは、ゆっくりと後ずさっておかしな姿勢で足元に転がった男を見つめた。しばらく呆然としていたが、聞きなれた声の呼びかけに、またゆっくりと視線を上げる。目の前に立つ人の姿をしたロデュウは、何か言いたげに眉をひそめていた。
「く、クソッ!」
ざわめく青年たちの中で、一人血の気の多い者が拳を振り上げてロデュウに迫った。ロデュウはその男の方を向き、難なく見切って瞬時に距離を詰め、男の胴体を蹴り上げた。
「あ……がッ……」
男の体が浮き上がり、地面に落ちる。ロデュウはその勢いのまま、すぐ近くにいた別の青年に向き直り、真正面から殴り抜ける。あまりに一瞬の出来事で、避ける間も無く青年は顔面に拳を受けた。うめき声をあげて仰け反り、膝から崩れ落ちる。潰された鼻を抑える手の指の間から、血がだらだらと漏れ出していた。膝立ちになった彼を、ロデュウはさらに蹴り倒す。そしてまた、次の青年に殴りかかった。
大立ち回りをしながら、長い黒髪がはためく横顔には、凶悪な笑みが浮かんでいた。楽しくて仕方がないといった調子で、拳を振るい続けている。
気づけば最後の一人となっていた青年は、突然の襲撃者に完全に気圧されていて、恐々と後ずさり、つまづいて転び尻もちをついた。焦燥しながら視線を上げると、次はお前だと言わんばかりの表情をした長髪の男と目が合う。思わず「ひっ」と怯えきった声が青年の口から漏れた。ゆっくりと青年の側まで来たロデュウは、戦意などとうに喪失した様子で座り込む彼を見下ろし、鼻を鳴らして言い放った。
「いいぜ、お前は見逃してやるよ」
思わぬ言葉に、青年はびくりと体を震わせた。ロデュウはニヤニヤと笑いながら、追撃の意思がないことをアピールするように腕を組んで棒立ちになる。訝しげに彼を見上げた青年は、地面に転がる友人たちを一瞬見やって、あたふたと立ち上がる。
一方的な乱闘劇を眺めていたチータは、ロデュウがどういうつもりでそんなことを言ったのか、不思議とわかる気がした。道端で呻いている仲間を置いて逃げようとしている男の背後へ、可笑しくて仕方がないと言った顔をしたロデュウが迫り、素早く手を伸ばして男の後ろ首を掴んだ。青年の目が、驚愕と恐怖に見開かれる。ロデュウはそのまま片手で軽々と青年を持ち上げ、勢いをつけて地面に叩きつけた。
「ぶばッ」
うつ伏せで叩きつけられた男は、奇妙なうめき声をあげて、地面に突っ伏し、そのまま体を痙攣させて動かなくなる。
「信じてんじゃねーよ、間抜けが!」
足元で伸びている男を見下ろし、ロデュウは満足げに笑い声をあげた。
「肩慣らしにもならねぇな」
そう吐き捨てて転がっている男を爪先で小突き、ロデュウはチータの元に戻った。
「おい、いつまでつっ立ってんだよ」
彼女の足元に落ちていたストールを拾って押し付けると、チータはそれをおずおずと受け取った。先ほどまで上機嫌だったはずのロデュウは、彼女の様子に苛立ちを覚える。
チータは受け取ったストールの砂を払い、目深に被りなおした。
「一応、お礼を言うわ」
ありがとう、とそっけなく伝えると、家に向かって歩き始めた。倒れている男たちを一瞥もせず、まるで何事もなかったかのように、緩やかな坂を登っていく。彼女の後ろについて歩きながら、ロデュウは自分の苛立ちについて考える。
別に、感謝されたくてしたわけじゃない。魔物の気配があると思って出てみると、チータがよくわからない連中に絡まれていて、久々に体を動かせる思ってとりあえずぶちのめした。それだけの筈だ。自分はこの女の、何が気に入らないのか。
しばらく歩いた後、彼はひとつの理由に思い当たり、前を歩く小さな背中に対して
「お前よ」
と声をかける。気づいたチータが立ち止まって振り返った。ストールの下から覗く碧い眼が、彼を見上げる。ロデュウがなにか口にしようとした時、背後に唯ならぬ気配を感じ、咄嗟にチータを抱き上げ地面を蹴って上空へ飛び立った。
次の瞬間、彼らが居た場所に何かが激突し、炸裂した。地面が黒く焦げて煙が上がっている。
「なに!?」
「魔物だ!」
ロデュウは素早く攻撃が放たれた方向を探し、こちらに狙いを定める二人組を捉えた。
「チータ!本は持っているな!?」
「え、ええ」
相手の魔物が次の攻撃を放つ。空中を飛ぶロデュウは、その攻撃を難なく回避した。
「はっそんな攻撃が俺に当たるか!」
そう吐き捨てた時、突如別方向から放たれた光線が彼の背中に直撃する。
「ッ……!?」
予想外の衝撃に、ロデュウの体制が崩れる。抱えられていたチータは、空中で支えを失い、浮遊感に背筋が凍る。
「ロデュウ!!」
彼はなんとか立て直し、空に放り出されそうになっていたチータを抱きとめる。大きく羽ばたいて旋回し、背後からの攻撃者を確認する。先ほどの魔物とは別の魔物と本の持ち主が、二人に狙い定めて次の攻撃を放っていた。
「クソがぁ!」
激昂しながらも避け、また別方向から放たれた術もぎりぎりで回避する。次々と放たれる攻撃の合間を縫って飛ぶが、時折、攻撃の余波が肩や羽を擦り、じわじわと動きが鈍っていく。反撃する隙がない。
「森へ!」
本を抱えて振り回されていたチータが、ロデュウの腕の中で叫んだ。ロデュウは舌打ちしながらも、上昇して高度を取り、山へ向かった。撤退は彼の性分ではなかったが、この場は仕方がないと判断するしかなかった。
敵の攻撃を振り切ったロデュウは、ブナが乱立する林の中に降り立った。山道からはかなり外れた場所を選んだため、あたりは人の気配がなく、とても静かだ。自然のままの凸凹とした地面に、朝露の湿り気が残る落ち葉が敷き詰められている。
「大丈夫なの……?」
チータはロデュウの背中を恐る恐る覗き込む。衣服の焦げはあるものの、傷らしきものは見当たらない。
「このくらいなんでもねえよ、あと何発かは耐えられる」
大したダメージではないとわかり、チータはほっと溜息を吐く。魔物は人間と比べて、かなり丈夫なようだ。
「魔物同士が組むことってあるのね」
「まぁ、弱ぇ奴も必死ってことだな」
弱いとは言っても、人間であるチータにすれば十分な脅威だ。
「私はあの攻撃、一度でも耐えられる気がしないわ」
「だろうな、基本的にお前を狙ってくるはずだ。くそ、めんどくせぇ」
ロデュウは大きく舌打ちをした。
「不利、なのかしら」
「術は無限に打てるわけじゃねぇ。さっきみたいなやり方はもう出来ない筈だ」
「そう……」
チータは辺りを見回す。葉の落ちきった晩秋のブナの森は、陽の光が多く差し込んで明るい。湿った木の葉の積もる地面には、所々に苔むした岩と倒木が露出している。
「………」
木々の間から覗く空を見上げて考え込む。後に彼女自身でこの時を振り返り、不思議に思うほど冷静であった。初めての戦いで、相手は二組というこの状況に、全く物怖じしていない。
ロデュウについても、いつもの彼からすればありえない状況であった。なんでも自分の思う通りにしかやってこなかった彼が、この場では何か策があるらしいチータが、口を開くのを待っている。
無意識の信頼が既にあることに、この時はまだ、お互いが無自覚であった。
*
翼の魔物を追って、やっと森にたどり着ついた二組の魔物と本の持ち主は、周囲を警戒しながら道なき道を進んでいく。無言で進む彼らの間には、険悪な空気が流れている。不意打ちで挟み撃ちという有利な立場にいたはずなのに、逃がした上に術を無駄撃ちしてしまった。その苛立ちをぶつけ合いそうになるのを、なんとか抑えている。
本来は戦い合うはずの間柄なのだ。今は致し方なく協力しているが、この戦いが終わった後はお互いがすぐさま敵になるのではないかという、疑念が渦巻いていた。
一体の魔物が、上空に気配を感じて空を見上げると、あの翼を持った魔物が空を舞っていた。あちらも相手を探している様子で、身構えようとした瞬間に、目があった。
「チータァァ!」
翼の魔物が叫ぶ。術を放ったのは同時だった。二方向から放たれたエネルギー波が空中でぶつかり合い、地上近くで相殺しあった。辺りに爆発の余波による風が巻き起こり、その風を切るように、ロデュウは相手の魔物の位置まで急降下していた。
勢いをつけて、彼は相手の魔物を殴り飛ばす。出遅れたもう片方の魔物が攻撃を放つが、上空へ舞い上がってそれを回避し、再び本の持ち主を呼んだ。どこからか響く声に合わせて呪文が放たれ、地上の魔物は吹き飛ばされた。
「はっ、口ほどにもねぇな!」
空の上で、翼の魔物があざ笑う。
殴り飛ばされた魔物が身を起こして、空を見上げる。彼の本の持ち主は、すぐさま反撃の呪文を唱えるが、飛び回るロデュウには当たらない。2発連続で術を放ったところで、彼は本の持ち主を制止した。
「やめろ!無駄打ちになる!」
本の持ち主を抱えていた時と違って、自由に空を飛べる魔物は、そうそう攻撃の当たる相手ではない。ましてや、足元は苔むした岩と倒木、濡れた木の葉で足場が悪い地上から空を狙わなければいけない彼らに比べて、上空から狙いを定めることができるロデュウは圧倒的に有利だ。消耗している彼らが打てる呪文はそう多くない。
「ラギュウル!」
構えた翼から、黒くねじれたエネルギー波が放たれる。まっすぐと本の持ち主の方を狙った攻撃に、地上の魔物は慌ててパートナーの前に飛び込み、その身で術を受け止める。
「ぐぅぅぅ!」
二発目の直撃は流石にダメージが大きいようで、やっとの思いで立ち上がって叫んだ。
「ほ、本の持ち主を探せ!そう遠くにはいないはずだ!」
云われた魔物が、その場を離れて声のした方向へ駆け出した。
「させるかぁ!」
ロデュウは走る魔物の背後へ降下し、彼をつかみ上げて空に飛び上がった。そのまま空中へ放り投げ、魔物へ狙いを定める。
「チータァ!」
翼からエネルギー波が放たれ、避ける術もなくもろに受けた魔物は、放物線状を描いて木々の上へ落ちていった。
*
魔物達が戦い合う場所から少し離れた位置に、チータは陣取っていた。切り立った崖の端に座り、眼下に広がる森をじっと見つめ、耳をすませている。開けたこの場所は敵に見つかる危険性も高いが、正確に攻撃のタイミングを合わせるには、上空の彼を目視する必要があった。チータは木々の上を飛ぶロデュウを目で追い、構えと呼び声に合わせて、呪文を唱える。
続けざまに地上に向かって乱高下を繰り返していたロデュウが、何かに気づいた様子で急に方向を変えた。こちらに向かってくる。異常を察して、チータは彼のサインを見逃さぬよう、目と耳を集中させる。
「飛べ!」
彼の声を感知して、チータはすぐさま本を抱えて立ち上がる。そして、足元から遠く離れた森に向けて、即座に飛び降りた。
「なッ……!?」
木々の合間から、彼女を狙って術を放った魔物と本の持ち主は、彼女の行動に驚愕する。直前に放った攻撃は、彼女が先ほどまで立っていた場所を吹き飛ばし、石片と砂埃が散った。しかし攻撃を避けたといっても、地面に激突すれば只では済まない高さである。
本を抱えて身を投げたチータは、地上に落ちるまでの一瞬を、スローモーションのように感じていた。あとほんの僅かな時が過ぎれば、地面に激突して自分の体は潰れてしまうだろう。そんな時が迫っているはずなのに、
(なぜ、こんなに平気なのかしら)
まるで他人事のように、心が揺れない。地上から吹き付ける風が体を撫でるのを感じながら、それは揺るがない確信があるためだと彼女は気づいた。ゆっくりと流れていく視界の端に、彼が迫るのを捉える。
(どうして貴方を、こんなに)
次の瞬間、横から体全体を打ち付けられ、胸が詰まり、息が出来なくなる。一瞬の衝撃の後、激しく何度か咳き込む中、気づけば地上は遠くなり悠々と空を舞っていた。
「はっ、やるじゃねぇか!」
彼女を抱えるロデュウが、笑い声を上げた。チータは息が落ち着くのを待ち、彼を見上げる。
「上手くいってるみたいね」
「ああ、片方は仕留めたぜ。もう動けねぇ筈だ」
「確実にそうかは分からないんでしょう。本を燃やすまで油断しないで」
「わーってるよ」
空から地上の様子を探るが、魔物が術を打ってくる様子はない。離れすぎていて、当たらないと判断しているのだろう。彼らがどこへ降り立つのか見逃さないよう、地上から目を光らせているようだ。
「同じ手は通用しないわ」
「だろうな」
僅かな間、彼は思案する。
「正面から行くぞ」
予想していた通りの答えに、彼女は素直に頷いた。
「わかったわ」
敵に身を晒せば危険を伴うが、彼がやりたいということを邪魔したくはなかった。
Be First to Comment